創業からのあゆみ

阿部養庵堂薬品の創業家である阿部家は初代・阿部養庵貞維ようあんさだふさの医師創業から290年余り、それぞれの時代において伝統を守りつつも常に新しい技術を取り入れ、地域社会の生活や福祉の向上に貢献して参りました。その代々受け継がれてきた養庵のDNA(使命)は今なお阿部養庵堂薬品の中に存在し、日々の製品開発に生かされています。

第1章
1731年
創業 江戸時代
漢方医としての活躍

当社の源流となる創家初代の阿部養庵貞維ようあんさだふさ(1699-1754)は医薬の道を志し学問を続け、漢方医として開業しました。 やがて六代将軍徳川家宣の弟で幕府の老中首座を務めていた松平武元から要請を受けて何度も家中に往診しているうちに、その腕を見込まれて1731年12月25日に松平家の御殿医となりました。 その後幕末まで、阿部養庵貞固さだかた(二代目)、阿部養庵貞好さだよし(三代目)、阿部養庵貞道さだみち(四代目)、阿部養庵貞一(五代目)が御殿医として仕えました。当時の医学は中国から伝来した漢方医学(中医)を日本の風土に合わせて改良し、独自のものとする日本漢方が大きな発展を遂げた時期でありました。

初代 阿部養庵貞維ようあんさだふさ

1731年(享保16年)

藩への往診の手当として扶持籾(米)を年間五十俵(300kg )を藩よりもらい受ける。

1734年(享保19年)

松平家の家臣に召し抱えられ、給与として十五人扶持(27石相当)と薬種代として年三両をいただく。

越智松平家の家臣分限帳に残る阿部貞維(初代)から實(六代)までの記録
越智松平家の家臣分限帳に残る阿部貞維(初代)から實(六代)までの記録
墓石に刻まれた阿部養庵貞維の戒名である「救療院」の文字
墓石に刻まれた阿部養庵貞維の戒名である「救療院」の文字

二代目 阿部養庵貞固さだかた

1783年(天明3年)

松平家より御側医師席を命じられ薬種料として年三両いただく。

三代目 阿部養庵貞好さだよし

1814年(文化11年)

松平家より御側医師席を命じられ薬種料として年三両をいただく。

四代目 阿部養庵貞道さだみち

1844年(天保15年)

松平家より御側医師席を命じられ二人扶持を加増。合計二十人扶持となる。

館林藩城下町絵図に残る阿部養庵家居宅の所在地
館林藩城下町絵図に残る阿部養庵家居宅の所在地
第2章
1846年
西洋医学と幕末
先端医学への憧憬、天然痘との闘い

阿部養庵貞一さだかず(五代目)は、日本近代医学の礎となった緒方洪庵の「適塾てきじゅく」にて福沢諭吉ら門弟と共に蘭学を修めました。当時は幕府による蘭学禁止令が出された時代でもありました。また世界初の天然痘ワクチンの種痘事業に塾生らと尽力したとも伝えられています(当時、天然痘の致死率は20~50%と高く最恐の病でした)世界初のワクチンである牛痘苗ぎゅうとうびょうは効果的で、1980年には天然痘が世界根絶されましたが、江戸時代では「接種すると牛になる」という迷信が全国的に広がり接種は困難を極めました。また貞一は世界で初めて全身麻酔手術を成功させた華岡青洲・鹿城はなおかせいしゅう・ろくじょう兄弟による外科塾「合水堂がっすいどう」で修行をし、外科医としても活躍しました。

五代目 阿部養庵貞一さだかず

1846年(弘化3年)

医術修行のため江戸滞在中三人扶持をいただく。また同年亡父養庵の家督十三人扶持をいただく。
格式は医師本席を命じられ薬種料として年三両いただく。

1855年(安政2年)

華岡青洲・鹿城による華岡流外科塾「合水堂」に入門。

1856年(安政3年)

福沢諭吉らとともに緒方洪庵が主宰する適塾に入塾し蘭学を学ぶ。

当時の姿に復元され、国の重要文化財に指定されている緒方洪庵の適塾跡(大阪)
当時の姿に復元され、国の重要文化財に指定されている緒方洪庵の適塾跡(大阪)
適塾名簿に残る阿部養庵(貞一)の名
適塾名簿に残る阿部養庵(貞一)の名
浜田藩時代の阿部家の菩提寺の山頂
にあるジェンナーの頌徳碑
浜田藩時代の阿部家の菩提寺の山頂にあるジェンナーの頌徳碑
第3章
1870年
激動の明治維新
医薬分業の時代へ

阿部養庵貞一は37歳の時、患者からうつった病でこの世を去り、阿部みのる(六代目)はわずか2歳で家督を継ぎ9歳で明治元年を迎えました。明治維新の動乱の中、阿部家が仕える松平家は幕府方として、奇しくも父と同じ適塾で学んだ大村益次郎率いる長州軍に抗戦するも「石州口せきしゅうぐちの戦い」で浜田城が焼け落ち、幼き實も母と共に新政府軍からの逃避行を経て生き延びました。
明治時代に入り漢方医学から西洋医学が主流となる中、青年となった實は最初期の薬舗開業試験(のちの薬剤師試験)に合格し東京市芝區しばく西久保櫻川町(現在の東京都港区虎ノ門)で薬舗業を営みました。六代目が先代の五代目から受け継いだ蘭学書や薬箱は長州軍から逃げる際も肌身離さず持っていたものの、残念ながら関東大震災ですべて失われてしまいました。

六代目 阿部みのる

1870年(明治3年)

浜田藩最後の明細分限帳に八人扶持として名前が残る。

1887年(明治20年)

薬舗開業試験に合格する。幕末の動乱後、東京で薬剤師を始める。

1909年(明治42年)

東京市芝區西久保櫻川町(現在の東京都港区虎ノ門)から東京市牛込區富久町(現在の新宿区富久町)に転居。

日本東京医事通覧に残る、阿部實薬舗
開業試験合格(明治20年)の記載
日本東京医事通覧に残る、阿部實薬舗開業試験合格(明治20年)の記載
1923年
大正・昭和
地域への貢献

阿部和友かずとも(七代目)は、明治から大正時代にかけて、当時目新しい先端技術であった電気の黎明期において電気インフラ普及事業に取り組み、人々の暮らしや地域の発展と関東大震災からの復興に尽力しました。
大正生まれの阿部和夫かずお(八代目)は、真田丸で名高い真田氏に伝わっていた「古式梅肉エキス」を一般の人も気軽に服用できるよう製造。赤痢、チフス、食中毒、消化不良に良いとされるこれを瓶に詰めて、地元の人々に販売しました。これが、現在のサプリメント製造販売事業の直接的な源流となりました。

七代目 阿部和友かずとも

1923年(大正12年)

明治、大正、昭和初頭の日本構造変革期、当時目新しい先端技術であった電気インフラの黎明期において、その普及事業にも取り組み、人々の暮らしや地域の発展、復興に尽力した。

阿部和友(七代目)
阿部和友(七代目)

八代目 阿部和夫かずお

1960年(昭和35年)

江戸期に国内で発明された民間薬の梅の濃縮エキス「古式梅肉エキス」を、一般の人も気軽に服用できるようにと製造開発に着手。赤痢、チフス、食中毒、消化不良に良いとされる商品を瓶に詰めて発売した。

阿部和夫(八代目)
阿部和夫(八代目)
梅の濃縮エキスを製造中の和夫
梅の濃縮エキスを製造中の和夫
第4章
1984年
現代~未来へ
受け継がれる阿部養庵のDNA

若き日の阿部和重かずしげ(九代目)は、南米横断の旅の途中、ブラジルで病に倒れ、その地の病院で働く薬剤師の女性セリマーと運命的に出会い、後に結婚しました。ブラジルでミツバチが産み出す防衛成分プロポリスの健康効果に深い感動を覚え、1984年には妻と力を合わせて日本で有限会社ノルデステを設立。南米から輸入した健康素材を日本国内の食品・サプリメントメーカーへ供給する事業を開始しました。その後の健康ブームに乗り、事業は大きく成長しました。しかし、アガリクスの健康への悪影響を報じる新聞の誤報により、多くの原材料を廃棄せざるを得ない苦境にも直面しました。 2019年には現在の主力商品となる若返り成分であるNMNを採用した製品を業界に先駆けて販売開始。その後、NMNのパイオニアとして、「1st NMN」をスローガンに、NMN化粧品のライナップも展開しました。

また、2023年、創業の精神に立ち返り社名を株式会社阿部養庵堂薬品に変更しました。290年以上にわたり、時代ごとの世界最高の技術や素材を世界中から取り入れ、皆さまにお届けしてきた歴史と共に、これからも妥協なき取り組みを続けて参ります。

九代目 阿部和重かずしげ

1984年(昭和59年)

有限会社阿部養庵堂薬品を設立しサプリメントの販売を開始。

ブラジルのプロポリス工場訪問中の和重(九代目)
ブラジルのプロポリス工場訪問中の和重(九代目)

2004年(平成16年)

ブラジル有機農園と提携し、オーガニックプロポリスを販売する。

当社初のプロポリス商品
阿部養庵堂薬品 初のプロポリス商品

2014年(平成26年)

日本ブラジル大使館にて健康物産展を共同開催。

物産展にてブラジル大使と共に
物産展にてブラジル大使と共に

十代目 阿部朋孝ともなり

2017年(平成29年)

阿部養庵堂薬品 代表取締役社長に就任。

2019年(平成31年)

日本で初めての法令遵守したNMNの販売を開始。

当社初のNMN商品「NMN Sirtuin®」
阿部養庵堂薬品 初のNMN商品「NMN Sirtuin®」

2020年(令和2年)

NMN製品の海外販売を開始。

2022年(令和4年)

徳島大学、静岡県立大学、鳥取大学との共同研究を開始。

2023年(令和5年)

株式会社 阿部養庵堂薬品へ社名変更。

東京大学、京都大学、東京理科大学との共同研究を開始。

全国の大学との共同研究を継続